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バリ島海岸(バリ島旅行記)
バリ島の海辺をウロツク店主
店主の旅日記(バリ島旅行記) 名も知らぬ 〜♪
遠き島より 〜♪
流れ来る 〜♪
椰子の実一つ
 〜♪
さすらいのアートディーラー(店主のこと)バリ島の海浜を彷徨う…。なんかイイモン落ちてないかな?とウロついてると…古そうな小銭を拾って大喜び!「ナンデモ鑑定団」に持ってくとひょっとして??(^∇^)??そしたら葬式の副葬品だって… 。あの世に持ってったら高く売れるかな… (^^ゞ 目次に戻る
ウブド郊外よりバトウカル山を望む
ウブド郊外よりバトウカル山を望む


店主の旅日記 聖なる泉・タンパクシリン 2003年11月

〜カウイ・ウンプルの沐浴場(左)と泉の水源(右)〜


空港からキンタマーニ高原方向(実に覚えやすい地名ですね)(^∇^)に1時間ほど車を走らせると、「聖なる泉」のあるタンパクシリンがある。「ティルタ・ウンプルの泉」は、小さな谷間にある伝説に包まれた泉で、守護寺院が周りを固めている。涌き水が貴重なもので、信仰の対象となっているのはとてもわかりやすい。故スカルノ大統領が造った別荘が、政府の保養所として使われ、先ほど開催されたASEAN首脳会談で小泉首相も足を運び、密かに願掛けしていたといわれている。(某国外務省筋談)ご利益があったかどうかは、その後の衆院選の結果が微妙なだけに店主には判断しかねている。

透き通った水が、地中から涌き出てくるところを見るのは気持ちの良いものだ。お布施をして、汗とほこりと現世の諸事情で汚れた心身を清めてもらい、ついでに頭と顔を洗わせてもらった。帰り道は、土産物屋街が迷路のように集まり、オバサンたちが手ぐすね引いて待ち構えていた。執拗な物売り攻撃に痛めつけられ、駐車場にたどり着いたころにはいささかぐったり。先ほどの清めも水の泡である。ここの物売りはかなり手強く、絶対相手にしないと決心していた店主も危うくテーブルクロスを買わされそうになった。頼んでもいないのに直ぐに「ビジネスプライス」を連発して、突然当初の値段の半額になる。ここからとっても疲れる底無しの値段交渉が始まったのだった。

次に行った「カウイ・ウンプルの泉」は全体が崖下の窪地にあり、静かで寂しそうな場所にある。ここも泉を守るようにして寺院があり、泉の奥は緑のコケやつる草に覆われた崖になっている。色とりどりの魚が泉の中を泳ぎまわり、涌き水が透き通った水底の白砂を吹き上げている。直ぐ下の木浴場に注がれる水流からして、かなりの湧水量だ。地元出身の運転手プトウ君に「これを瓶詰めにしてミネラルウオーターとして売り出せば村の一大産業になるのでは?」と提案するものの全く相手にされない。彼曰く、「この涌き水は神様のものだから商売の道具にするのはとんでもない。それに、乾季になると田圃の大切な水源になるので、余分な水は少しも無い」とのこと。それなら雨季の間だけでも・・・・・と食い下がってみたが真剣に考えては貰えなかった。

店主が気に入っているのはこの泉で、バリ島に来る度に訪れている。緑の絨毯にすっぽりと覆われた静かな水面に立っていると、時々爽やかな風が吹き抜ける。そんな時、聖霊の気配を感じてゾクゾクっとする。




店主の旅日記 東海岸紀行・トゥランベン 2003年10月

〜ロンボック海峡の日の出/遠くロンボック島の山影が見える/右は朝焼けのアグン山〜


これまで何度かバリ島を訪れているのですが、不思議とクタやウブド方面から最高峰のアグン山が姿を現さないので少し不満に思っていました。

今回島の東海岸を旅することになり漸くその謎が解けました。一年を通して吹くインド洋からの湿った西風が、アグン山やキンタマーニ高原を這い上がるうちに大量の雲を造って西側の山麓を覆うためだったのです。その雲は大量の雨をもたらし、長い年月を経て西側山麓を豊穣な土地に造り替えてきました。同じ頃にウブドに泊まっていた人が毎日雨でウンザリと言ってましたがクタの辺りは少し雲が多いかなというくらいの天気でした。

車で東海岸を目指し、海岸のチャンディダサを過ぎると美しい棚田が広がる峠がある。ここを越えると辺りの景色はガラリと変わり、へえ〜バリ島にはこんな土地もあるんだア・・・・・と吃驚するような荒涼とした原野が広がっていた。アグン山から吹き降ろす乾いた風が一日中吹き続けるためか、水気がまるで無い。トゥランベンの海岸に面したミンピリゾートホテルから海に入ると、熱帯魚がいっぱいの鮮やかな珊瑚礁の豊かな海が広がっていました。

湿度と蚊と人ごみが嫌いでただ静かで綺麗な海があれば・・・・とおっしゃる方にはお勧めの隠れ家だと思います。この頃は、島内のかなりのホテルが料金を下げていて、通常の半額くらいで泊まれます。今回はUSD50(¥6000)で、これは運転手と私の二人分の料金で、しかもアメリカン朝食(バリ風?)付きでした。最近は高級ホテルほど空室が多いため料金を下げて集客しているので、優雅な旅行を割安にできるチャンスだと思います。べラボーな料金を請求するホテルが結構あるので価格交渉が大切です。でも安心してください。今は買い手市場ですので、ここは強気で押していきましょう。




店主の旅日記 Long Jouney 天上の楽園  2003年9月

〜ジュネーブ郊外のフランス領 Gonville Golf Club にて(両親同伴だと18歳未満は無料)〜


忘れないうちにと思い今回の家族旅行のことをかいてみます。以前住んでいたスイスのジュネーブにいってきました。今夏ヨーロッパで猛威を振るっていた熱波は既に去り、夏から秋へと移り変わる爽やかな気候でした。以前住んでいたアパートの周りや思い出の場所を歩くと、嬉しいことにその頃と同じ風景がそこにあり、顔見知りの人達が声をかけてくれました。違うのは自分たちだけがそこから抜け落ち、遠い日本という国で別の生活をしているということでした・・・・。幾度となく目頭が熱くなり、なんとも感傷的な旅となりました。もし、その風景が大きく変質していたとしたら、そんな感情は湧いてこなかったと思います。日本の都会では風景や街の景観は誰にも尊重されず哀れな姿に変わり果てた川のように無残なことになっているのが残念です。 

今回利用したタイ航空は関空からのコネクションがとても良く、行きも帰りもバンコックで1時間少々の乗り換時間で済みました。ところで、近頃のエコノミークラスの食事内容は悲惨なことになっていますよね。年々「鳥の餌」状態(注1)に近づいていて、いっそのこと有料にして各ゲートに弁当コーナーなんかを設け、乗客は思い思いの食事を手に搭乗するというほうが良いのでは?スチュワーデスさん(今はフライトアテンダンスですね)の顔からはとんと笑顔が少なくなり、美人ほどツンツンしたサービスでこちらが恐縮するほど。そんななか一つだけ収穫がありました。機内音楽のClassic Musicの中に「Long Journey」という曲があり、繰り返し聞いているうち耳から離れなくなってしまいました。情緒に溢れたメロディーに、一中年旅行者はアジアへの旅へと誘い込まれてしまいました。

赤と白のワインを両方頼んで嫌な顔をされ、食事のスピードが遅いと呆れられてもこの極上の音楽と赤白ワインを両手に狭い機内の「天上の楽園」で幸せな時間を満喫する店主でした。ネットでこの曲を探しているのですがタイトルは同じでも別の曲しか見つからず悶々としています。どなたかご所有でしたら譲っていただけませんでしょうか。 店主


注1:タイ航空に限った事ではないですが、アジア系航空会社の食事内容は他と比べてとても良かったのです。シャンペン(スパークリングワイン)も無料でした。





店主の旅日記 ロングステイ・楽園で暮す 2003年8月


バリ島に惹かれる貴方は「将来移り住んでみるのもいいかなァ」と思っていませんか?椰子の木陰で波の音を聞きながら寝転がって本を読み、暑くなったら海に入って波と戯れ、さて今晩は何を食べようかなァ・・・・などという生活は悪くないどころかどうやって実現させるかが問題ですよね。

店主自身、家族で移住しても良いなと思いあらゆる面から検討と研究を重ねてみました。ところが気候風土、食料と習慣、治安と物価などとても魅力があるのですが、この国では外国人居住者の権利を政府が全く尊重しないのが伝統という事が次第に明らかとなり、ウーム・・・・・と二の足を踏んでいるところです。この島で素人が事業を始めて生活資金と将来設計を・・・ などと考えてはいけません。何か揉め事があると我々は例外なく裁判に負けて身包み剥がされてポイと放り出されるというのが定説となっているようです。

そこで、取りあえずリスクの少ない方法として年に1〜2ヶ月ロングステイしてみるのがベストかと思います。安くて清潔な宿を見つけてインドネシア語を使えるようになれば現地の事情にも明るくなり、何度か通うあいだに心を通わせる友人が何人かできて初めて快適な「楽園で暮す」の生活をエンジョイできるようになります。そこまでしなくても・・・・・と思うかもしれませんが、そこまでしたくなる魅了か魔力がこの島には確かにあると思います。取りあえず今はせっせと資金を貯めなければと思うのですが・・・。

達人を一人ご紹介します。彼は60代で通称「プロフェッサー」と呼ばれ毎年2ケ月ほどバリ島で休暇を過ごす。連れ合いは日本に残し一人でやってくる。暑い日中はホテルの部屋やプールサイドで読書して消耗を避け、暗くなると怪しい夜店を渡り歩くという蝙蝠のような毎日を過ごしているらしい。行きつけのパダン料理店によく現れ、食後に持参のウイスキーをグビッとひっかけて夜の闇に消えて行く・・・。懐の深いバリ島はサーフィン好きの若い兄ちゃん姉ちゃん達だけの遊び場ではないんですね。証拠は掴んでないが、どうも若い男の子を可愛がっているのでは?と睨んでいるのだが・・・。 違ったらゴメン!





店主の旅日記  旅行パターン西東 2003年7月 

PUTU君の姪のAYUちゃん 巨大な竹の林 ニョピの主役オゴオゴ


人は旅を思い立つとき、非日常性を求めて目的地を探す。北の住人は南の島の椰子の木陰を目指し、熱帯の住人は雪の降る白銀の世界に憧れ、砂漠の住人はくる日もくる日も氷雨が降り続くスコットランドのチリサマーを夢見る。

さて、バリ島で一番多いヨーロッパ人旅行者の典型的なバカンスの過ごし方をご紹介すると、毎朝10時頃に砂浜やってきてパラソルの下に陣取り、日没までトドのごとく寝そべって2〜3週間うっちゃる。

バリの砂浜はとても便利で飲み物、果物、ショッピング、マッサージからマニキュア、髪結、刺青までコレデモカ〜!というくらい次から次とお声がかかる。昼餐は抜いて晩餐に魑魅魍魎が跋扈する夜の街へ繰り出し、ビールをチビチビやりながら遅くまで粘る。トド状態に飽きてきたら、知り合い同士で車をチャーターして史跡や景勝地をめぐるツアーを楽しんだり滞在地を移動したりして3〜4週間の休暇を楽しむのがヨーロッパ風です。

我が同胞はというと、とにかく滞在日数の平均が3〜5泊と超短いので観光、ショッピング、エステとスケジュールが立て込みビーチで寝転がってボーっとする暇は無い。夜はディナーショウを見て日頃おろそかにしている家族サービスなんかすると疲れ果てて夜遊びする余力はまず残らない。帰りの機内で爆睡し、我が家に着いたら旅行中に取りまくった膨大な写真とビデオの編集整理をこなし、それでも足らずにホームページを立ち上げて旅行記を掲載しちゃったりする。涙ぐましいほど時間とお金をユーコーに使う国民です。

最近増えてきた韓国、台湾、中国人たちの旅行形態はというと我が同胞とあまり変わらない忙しさでスケジュールをこなしキッチリと団体で行動する。ただショッピングの時の値切り方は半端じゃなくお店のヤリテおばさんの眉間に縦皺が走りっぱなしという状態になり終いにはケンカ腰の絶叫調交渉となる。この忙しく動き回る行動パターンは東北アジア民族共有の性格である事がわかり興味深い。

もう少し日本の社会は(会社じゃなくて)勤労者とその家族を労わりせめて2週間くらいの連続した休暇をとる権利を与えてくれてもいいんじゃないかと思う。それともまだ働き方が足りないということかな?もっと安い宿泊施設を利用すれば同程度の料金で2週間くらいバリ島での〜んびりできるのに・・・ただ若い人達の中にはバリ・フリークが増えてきて波を追っかけナシチャンプルーで凌ぎながら現地語を話し一日数百円で暮らすという達人もいるらしい。






店主の旅日記 インドネシア語のお話  2003年7月


雄大なパノラマが魅力のキンタマーヌ高原
とは言ってみたものの、考えてみると言葉は民族の歴史と文化の源とも言える重要なテーマであり、店主はまだカタコトのインドネシア語しか話せないという事実に気がついてしまった。
トホホ・・・。


そこで、今回はインドネシア語(注2)の学習体験談でお茶を濁すことにしました。店主にとって旅の愉しみの一つは現地の人と友人になって、彼らの暮らし振りや世の中の事件についての考えを知る事です。いわゆる草の根国際交流ですが、今回バリ島でとった作戦は気の合いそうなホテルの従業員やビーチボーイを誘って一緒に晩飯を食べたりホテルの部屋で酒盛りしながら、下手な英語を交えて覚えたてのインドネシア語の単語を繰り返しながら会話を試みることでした。長く退屈な夜を地酒のアラッ(注1)のソーダ割でワイワイやりながら、言葉もついでに学習しようという巧妙な計画です。

清流が美しいギギの滝数ヶ月に渡る努力と財力?の賜ものか事情を知らない人には「ウッソー!どうしてそんなに早く話せるようになったの?」と驚かれた。(実は訳も解らず同じ言葉を繰り返していただけなのだが・・・)前回紹介したサヒーとプトゥは僕のインドネシア語の先生でもあります謀の犠牲者でもあります。そんな訳で外国語を覚えるには、やっぱりその国の友人をつくるのが一番手っ取り早いのではと思いますが如何でしょうか?

ちなみにインドネシア語は世界でも指折りの易しい言語と言われており、語源がマレー語と同じなのでマレーシアやシンガポールでも堂々と使えるんです。これでアナタも3ヶ国語をゲット〜!
注1:アラッは日本では椰子酒と紹介されていますが米で造ったものもあります。
注2:学校やお役所等では公用語のインドネシア語を使い、友人同士や家庭ではバリ語で話し、外国人には英語で話しかけるというナンとも複雑な事態です。




店主の旅日記 バリ島で出会った友人達  2003年6月 

サヒーは30歳半ば、ジャワ島の古都ジョグジャカルタ近くの出身だ。2年ほど前からここでビーチボーイとして働いているがその前はジャカルタでシンガポールや台湾向けに若い女性をお手伝いとし送りこむ仕事をしていたらしい。

ホテル近くのパダン料理店(注1)で声をかけられたのがきっかけで友達になった。仕事の腕は良くスミニャックビーチでは一番の稼ぎ頭だ。

まじめなムスリムで年に一度の断食の時には故郷に帰り断食明けのお祭りを家族と祝う。断食はとても苦しく心身ともに消耗するが、それを乗りきった時の高揚感は最高で感激の涙が止めどなく溢れてくるという。谷深ければ山また高しなのだ。そのあとは懺悔と喜捨(注2)の応酬で身も心も洗われ、まっ新な人間に生まれ変わるのだと言う・・・・・。

参考までにバリ島はヒンズー教徒の島で、聞くところによると島の最高峰アグン山に登るとこれまでの不徳が洗い清められ、新しい人間に生まれ変わることができるらしい。何ともうらやましい話しである・・・・・・。
(注1):パダン料理とはスマトラ島パダン地方の料理で、皿に盛られたオカズから好きなものをピックアップしカレー風スープをかけた辛い料理で、食べた分だけ支払います。(注2):断食が明けると自分より目上の者にこれまでの罪を懺悔をし、目上の者はそれを許しお小遣いをあげる習慣。サヒーは稼ぎが良いので親戚中の子供達にお小遣いをやってたらしい。
プトウも30歳半ばでバリ島の聖地タンパクシリングの生まれ。常宿している同族経営ホテルの夜警をしているがその前は村の子供達を相手に空手の先生をしていた。

バリ島では珍しい筋肉モリモリのマッチョマンで運転主兼ボディガードをしてくれた。ホテルで部屋を面倒見てくれているが月給は40万ルピア(約5千円)で食べるのが精一杯だという。親の援助でなんとかこの4月に婚約者のマデと結婚式を挙げたと風の便りで聞いた。長男なのでマデは彼の実家で両親や兄弟姉妹たちと同居することになる。ただ次男、三男でも普通は親と同居だという。

その実家に泊めてもらった時のこと。彼のおじいさんに僕が日本人だというと日本軍が占領していた頃の話をしてくれた。軍の食料の徴収が厳しくて食べる物が無くなってとても辛かったという話しを聞きながら果実の女王といわれるドリアンをご馳走になった。それまでうかつにも日本軍がバリ島の歴史に登場するとは思ってもいなかった。高原とはいえ熱帯の夜の空気は甘くねっとりとした香りをまとわせ、ドリアンの濃厚な味と舌触りと良い勝負をしていた。





店主の旅日記  時間は静かで平和を好む  2003年6月

近頃、スローフードとかスローライフとかを新聞やTVでよく聞くようになったけど、自然に回帰してコトの本来の意味をじっくりと考えて見ようと言うコトじゃないのかと店主は思うのです・・・・。

その昔、南の島にツイアビというオジサンが住んでいて「目的地に早く着くことが得するとは思わない」とか「時間は静かで平和を好み、ムシロの上にのびのびと横になるのが好きだ」いうようなコトをおっしゃった。

「日の出から日の入りまで一人の人間には使いきれないほどの十分な時間があるのに、どうしてパパラギ(白人)は時間を追いたてるのか・・・」へえ?と読み進むうちにどうやらモノゴトの解釈が我々キンダイブンメイジンとは違うようなのだ。その辺のことがバリ島で暮らしてみると心と体に少しずつ染みこんでくる。昔ながらの文化と価値観の中に暮らしているバリ島の人たちは平和で豊かな人生を送っているように見えました。

ここ数年で世の中は急速度で効率化しグローバル化しマニュアル化しているけど、そのうちついにクローン化してしまうのではないかと店主は密かに心配しているのですが・・・・・。

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