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バリ島海岸(バリ島旅行記)
バリ島の海辺をウロツク店主
店主の旅日記(バリ島旅行記) 名も知らぬ 〜♪
遠き島より 〜♪
流れ来る 〜♪
椰子の実一つ
 〜♪
さすらいのアートディーラー(店主のこと)バリ島の海浜を彷徨う…。なんかイイモン落ちてないかな?とウロついてると…古そうな小銭を拾って大喜び!「ナンデモ鑑定団」に持ってくとひょっとして??(^∇^)??そしたら葬式の副葬品だって… 。あの世に持ってったら高く売れるかな… (^^ゞ 目次に戻る
ウブド郊外よりバトウカル山を望む
ウブド郊外よりバトウカル山を望む


海峡の町・ギリマヌを目指して 〜バリ島西端を行く〜  2005年9月

ヌガラ街道の海岸風景

島の西側を1泊2日の行程で車で走破する日の朝は、特製のブブール・アヤム(鳥雑炊)とマンゴー、それにお馴染みのバリ・コーヒを飲みながら、前夜のタンパクシリンのカフェ(注1)での話で盛り上がった。が、少し飲みすぎたせいか助手のPUTU君の顔色が余りよくないのが気になる・・・。

バイクで移動中の若夫婦と子供たち予定より1時間遅れの10時キッカリにウブドの宿を出発する。石像の彫刻で有名なバトーブーラン村を抜け、島で2番目に大きい町ヌガラを目指す街道は穀倉地帯と言われるだけあり、左は緑豊かな水田が広がり、右には椰子の木の後ろに白波が砕ける海岸が続く。BGMに「パヴァロッティと仲間たち」を聴きながら、バリには珍しい直線道路を突っ走った。

ンンッ?ここがヌガラの中心かア・・・。ナンもなさそうだなア・・・。グルッと回ってみたが昼食のレストランも見つけられない体たらく。ここは諦め、次の目的地であるギリマヌ方面に車を走らせた。街道筋のイカンバカール屋さんを漸く見つけ、大き目の白身魚を焼いてもらった。塩を擦り込んで焼くようにしつこく依頼するも、塩味不足のためソース風の醤油をかけ白ご飯と一緒に食べる。バリ風野菜炒め「サユール・ゴレン」を頼むも、ほんの一皿しか残っておらず少々不満でしたが味は美味なり。野草っぽい葉っぱで、茎がやや硬いのだがビールに良く合い近頃のお気に入りの一品です。

ギリマヌからバリ海峡を望む昼食後、昨夜の疲れからか瞼が閉じそうな顔で運転する助手の様子が心配になり、意を決して運転を代わる。バリでの運転は初体験であったが、見通しの良い直線道路(たまにガクッと曲がるが・・・)を快適に爆走。始めは不安で眠気が覚めた顔の助手君も、店主の余裕のハンドル捌きに安心してか直ぐに仮眠体制に入る。アッという間に海峡の町ギリマヌに突入し、勢い余ってそのまま桟橋への入り口に入りそうになるも、証拠写真を一枚撮ってゲート前をUターン。この狭い海峡は、ジャワ島からの玄関口で、遠い昔ご先祖様を始め、仏経、ヒンズー経、マジャパイトの軍勢から今では多くのジャワ島出稼ぎ労働者に観光客、オマケに爆弾テロリストまで皆この海峡を船で渡ってきた。沖に見えるフェリーはこれから入港するのだろうか船首をこちらに向けている。うす曇の海峡の向こうに、ジャワ島の町並みがぼんやりと見え、その後ろには火山らしい山の稜線が鋭い曲線を描いて中空へと伸びていた。

海峡の村を過ぎると、直ぐに「西部国立公園」が始まり、これまでとは違う乾燥した土地独特の茶色い草原が広がるっている。絶滅保護鳥のバリ・スターリング(カンムリ・シロムク)の最後の生息地はこの辺りのはず。滅多に見ることはできないようなので、運勢に自身の無い店主としては無謀と思える絶滅保護鳥の探索は諦める。

ブヤン湖とブラタン湖ここから今晩の宿泊予定地ロビナビーチまではほぼ一直線(地図上は)。途中幾筋か川を横切るも、ほとんどが水無し川で川床が干からびていた。にわか運転手となった店主のハンドル捌きも快調で、予定通り日暮れ前にはロビナビーチのニルヴァナホテルにチェックイン。後で知ったことだがロビナ・ビーチには2つのニルヴァナ・ホテルがあり、「ウオーターガーデン」に泊まる予定だったのだが、そうとは知らない店主は海辺のバンガロータイプに宿泊してしまった。ホテル到着後、助手席でお疲れ気味のPUTU君を誘ってホテルお勧めの日本人若奥様経営のマッサージサロンに直行。お安くて丁寧な極上オイルマッサージで旅の疲れを癒してもらう。

その夜のことであった。地元のカフェでしこたまアルコールを摂取しベッドに入ったまでは覚えていたが、暗闇の中「ワーン」というイヤな音と強烈な痒みで叩き起こされた。寝ぼけアタマにもやぶ蚊どもが店主の体をエサに宴会を開いていることに気付き、たまらずに部屋の外に飛び出す。「ニャムック・・・ニャムック・・・」と身振り手振りで夜警のオジサンに窮状を訴え、監視所風の彼らの寝床に緊急避難。「アノ部屋には二度と戻れない・・・」と、野宿の覚悟を決めるハメになってしまった。 と、夜空を見上げると、そこには隙間が無いくらいビッシリと星どもが勢揃いして、真夜中の大宴会を開いていたのだった・・・。(T◇T)

写真上 : ヌガラ街道の海岸
写真中1: バイクで移動中のハッピーファミリー
写真中2: 海峡の港町ギリマヌから見たバリ海峡とジャワ島
写真下 : 島の中央部ブヤン湖と後方はブラタン湖

注1 :「カフェ」は地元男子青年たちの夜の憩いの場で、オープンエアーの酒場のこと。かなり暗いので足元には十分注意が必要。相手の顔が殆ど見えないほど・・・。 (=^_^;=)





シュピースの魂 〜アグン山麓イッサー村を訪ねて〜 2005年6月

イッサー村の田園風景

カマサン村で悲願の名画(と思う)の購入を果たし、東海岸の村アメッド、トウランベンの探索(何の?)を終えた翌朝、店主一行は満を持してワルター・シュピース(注1)縁の村イッサー(注2)へと向かった。

前を走るのは荷台に「若ウシ兄弟」を載せた軽トラで、連続するカーブ、登り坂を果敢にクリアーする力強い走りっぷりで助かった。250%くらいの積載オーバーと思われるトラックが、平然と牛歩状態で前を塞ぐことがしばしばだけに移動の時は油断禁物。バリの道路事情はというと、一つ街道を外れると「コレハ酷い・・・」の一言で、標識は当てにならず、アナボコ、鋭角的カーブに路肩は崩れ、ジェットコースター並のアップダウンが続くと考えてよい。お陰で、一度も店主自らハンドルを握ろうという野望を持ったことは無い。

旧シュピースの家(道の奥)最高峰アグン山の南麓にあるという幻の村(店主にとって)が次第に近づいて来るのをヒシヒシと感じる。今回バリ島に向かう機内誌で見た「熱帯幻想絵画」の世界が窓の外に広がっている。起伏に富んだ地形を水路が縦横に走り、緑豊かな田園(何処もそうか)が広がっている。小高い丘の上に寺院らしきものが見えてきた頃、運転手兼アシスタント兼通訳のPUTU君を介して道端を歩くお姉さんに例の別荘のことを聞いてみた。すると、今もその家が残ってるというではないですか!ラッキイ!(=^0^=)/♪

その家は村の入り口の小高い場所にあった。がしかし、今は、とあるスイス人の別荘になっていて中には入れないという・・・・。 グスン (T◇T) 橙色の壁が真新しい手入れが行き届いてそうな別荘風の館では、使用人と思われる男たちが数人手持ち無沙汰そうに中庭でテレビを見ている。(もっとも、この島で忙しそうにしている男どもを見たことが無いのだが・・・)

イッサー村は、小学校と大きな集会場のような建物を中心にして、その周りを家々が取り囲む「中世アジアの集落」そのままのシブ〜イ佇まいだ。どんどん道を進むと川の流れる明るい谷間へと続いている。シュピースは「俗化して騒々しくなってきたUBUDに愛想が尽き、友人に紹介された静かな山間の村に居を移した」と友人への手紙に書いている。これは、今から80年ほど前に外国人として初めてここの住人になった人の言葉ですゾ!するとワタシラが滞在しているUBUDの今の姿というのはナンなの?との大疑問が沸いてくる。

シュピースがこの村に住んだのは足掛け2年という割と短い期間で、早朝に起きて日が昇る前の朝靄の中を散歩し、多くの時間を自然観察と絵画の制作に費やする毎日でした。↓の作品は彼の代表作とされる「風景とその子供たち」で、この村の風景からインスピレーションを得て描いた作品です。風景となる山や川、水を湛えた棚田など自然が母となり、そこに生きる村人や動植物がその子供たちです。この作品は1939年ジャワ島スラバヤの収容所内で制作されている。第二次世界大戦が勃発し、当時の宗主国オランダの敵国人であったため囚われの身となった辛い日々の作品で、暗い収容所の中で恋焦がれるバリ島の自然や友人たちのことを想いながら描いたのでしょう。

シュピースは云ってます。「 様々な色調、形式、量感で反復されるテーマが、低く柔らかな音色の楽器によりシュピース作品「風景とその子供たち」旋律的な線の流れとなって山や丘を奏で、高い硬質な楽器によって光に照らされた棚田の輝きや暗い森のざわめきを奏でる中、絵画と音楽は渾然一体となる・・・。」 如何でしょう、ナンカ聴こえてきました ??(=^_^;=) ??

ロシアに生まれ、遠く東インド(注3)で生命を燃やした青年芸術家は、二度と祖国の地を踏むことなく47歳の若さで世を去ったのでした。(T◇T)

バリ島滞在の12年間に多くの絵画を制作している筈なのに、現存している作品はほんの僅かしかない。そのほとんどが熱帯の密林の中で朽ち果ててしまったか、それとも彼と共にインド洋の波間に沈んでしまったのだろうか・・・。

そして今、百年の時を超え彼の魂を師とする若い画家たちが現れ、熱帯幻想絵画のシュピース派として静かに歩き始めた。


注1:ワルター・シュピースはロシア生まれのドイツ人で近代バリ芸術の発展に尽くした伝説的な人物。
   彼の作品はコチラに紹介されています⇒(ワルターシュピース作品集
注2:イッサー村(ISEH)はガイドブック等に「イセ」とありますが、正しくは「イッサー」と発音される。 
注3:大航海時代に「東インド」と呼ばれ、その後独立して「インドネシア共和国」となる。

参考図書: 伊藤俊治著、「バリ島芸術をつくった男」






店主の旅日記 熱帯の旅人2005・サヤン村 2005年3月

旧マックフィー邸付近よりアユン川を望む

アメリカ人のコリン・マックフィーは1931年〜1938年の足掛け7年間バリ島に移り住んだ。首都デンパサールでのホテル生活に飽き足らなくなり、最後はUBUD郊外サヤン村の川を見下ろす眺めの良い丘に居を構えた。音楽家であり作曲家であった彼は、ふとした事から南アジアに伝わる「ガムラン」の不思議な旋律に魅せられバリ島にやってきた、と著書「熱帯の旅人」にある。

当時、バリ島の玄関である北部海岸の港町ブレレンに到着した彼は、下船したその足でガムランの演奏を聴きに行ったという傾倒振りであった。音楽以外にも、伝統的な踊りや風習に一方ならぬ興味を持つ彼の宮殿(村人にそう呼ばれていたらしい)にはガムランの生き字引といわれる仙人風の老人から踊りの師匠、高貴過ぎて橋の下を歩くのもイヤという高僧にインポに悩む王様までと千客万来の日々。バリ島芸術史しにその名を残すドイツ人画家/音楽家のワルター・シュピースもこの家で椰子酒をいっ〜ぱい飲まされてたようです。
ポンコツ自動車に鞭打って島中を走り回り、(当時の道はどんな状態だったんでしょうね?)苦心の末にガムランの古典を楽譜に記録した功績は大きい。文字通りの無形文化財で、うまく伝承されなかったら歴史の彼方に忘れら去られる運命だったのですから。

庭の風景UBUD村の画家、TEGIG氏を訪ねた時にこの話をしてみた。
店主    「Do you know "A Hous in Bali " ?」
TEGIG氏 「Hous in Bali is every where here… ha ha ha」
店主    「Colin Mcfhee…A Hous in Bali…」
TEGIG氏  「Colin Mcfhee ? Hous in Bali ? 」
店主    「Yes,He came Bali long time ago…」
       「May be 100 years ago… ?」 
TEGIG氏  「Ah yes…, I 've heard it !」
       「He stayed in a bunbalow in Sayan.」
店主    「Yes,that's it ! I want to see it !」 

という訳で店主の熱い思いが通じ、TEGIG氏をガイドに頼んでUBUD郊外のサヤン村に向かった。当時マックフィーが住んでたという崖っぷちの土地には高級バンガローが立ち並び、遠くの山間にはポツリポツリと別荘らしき赤い屋根が見え隠れする。一際巨大で眺めの良さそうなプールのある建物はフォー・シーズンという名の超高級ホテルらしい。崖下の遥か谷底には今もアユン川が流れていた。
夢の跡当時の面影はこの眺めだけか…、と店主が諦めて帰りかけた時、道端の隅に曰くありげな廃屋が目に止まった。誘い込まれるように近づき、入り口を一目見るなりジーンと熱いものが込み上げてきた。嗚呼、ここだったのか・・・。この庭でサンピ少年の踊りの稽古を眺め、土地の魔神を鎮める祭りを行い、この部屋で来客をもてなし、ガムランに聴き入り、酒を飲み・・・そしてめくるめく時間が過ぎ去っていった。

その後の東南アジア地域の植民地からの独立に大きな影響を与えた、太平洋戦争の足跡が不気味に忍び寄る1938年、帰国を信じてくれない多くの友人、知人に最後の別れを告げた情熱の旅人を乗せた船は、雨に煙る海峡へと去っていったのでした・・・。いつかは別れの日が来るんですね。(T◇T)

マックフィーは同国人の新妻を伴っての滞在だったにもかかわらず、不思議なことに彼女のことには一言も触れていない。よほど腹に据えかねることがあったのか、それとも他に意図があったのか今では知る由もない。

参考図書:コリン・マックフィー著、大竹昭子訳「熱帯の旅人」(原題 A HOUS IN BALI)



店主の旅日記 ジャワの古都ジョグジャカルタ紀行  2005年1月

古代ヒンドゥ教プランバナン遺跡
(ジャワ島中部ジョグジャカルタ郊外にある古代ヒンドゥ教のプランバナン遺跡)


昔々、ジャワの島の王国にロロ・ジョングランというそれはそれは美しい王女様がおったそうな。ところがある日、父王が隣国との戦で命を失い王女は宿敵の将軍に結婚を迫られてしまう。

嘆き悲しむ王女はこのイヤな男から逃れようと、「一晩で千体の石像神(寺院)を造ってくれたらアナタに嫁ぎましょう」と無理難題をふっかけたのでした。(ジョーシキ的に考えて無理ですよね!)

壁画の一場面ところがこの男、スーパーパワーの持ち主で恐ろしいスピードで夜が明ける前にナント999体の石像を造ってしまったのでした・・・。

これを知った王女様、「ヒエ〜これはイケナイ!」とばかりに待女と計り、ボケた鶏をけしたて「コケコッコ〜」と鳴かせて一方的に時間切れを宣告したのでした。 フー ヤレヤレ (=^_^;=)

「あと1体で完成だったのにグヤジー」 と、将軍は我が身の不幸と武運のつたなさを嘆き悲しんだという。 メデタシ メデタシ (=^0^=)/♪

ところが、話はこれで終わりません。後でこれが王女の策略だったことを知った男は、怒り心頭に達し恋焦がれる王女を魔力で千体目の石像にしてしまったのでした。

元も子も無いと思うのですが・・・。(T◇T)


王女ロロ・ジョングラン(女神ドウルガ)石像
左の写真が石にされてしまった王女ロロ・ジョングラン。女神ドゥルガの化身と言われ、プランバナン遺跡で一番の人気者です。ドゥルガはあの恐ろしいぶち壊しの神様「シヴァ神」の奥様で、牛の尻尾を引っぱったり隣のサル男の髪を鷲づかみにするなど逞しくもあり妖艶な姿をしておられる。一説には魔女とも言われているのですが・・・。

その化身である石像のスネからお腹にかけて、参拝客に撫で摩られたためか黒光りしていて、あろう事かその上の恐れ多い部分までもピッカピカになってるではありませんか!

怒れるシヴァ神の奥様に対し、男性参拝客がそんなことをしたらどんな災難が振りかかることか恐ろしいことです・・・。(南無阿弥陀仏)

おそらく、この外見の美しい女神様の容姿にあやかろうという「異教徒にして美容至上主義者」の同性参拝客の方々の仕業ではないかと睨んでます。

九百九十九の数にちなんだ昔話は我が国でも「牛若丸と弁慶」や「石段を組む鬼」の話など有名ですね。ところが、あちらの国では「ハイ、参りました。」とは事が収まらず、「無理」には「難題」、「謀略」には「魔術」と延々と戦いを繰り返し、終いにどっちが悪いのか解らなくなってしまうところがスゴイ!

そうです!最後に勝つのは善悪を超越した、洞察力と執着心ではないでしょうか?
イヤイヤそうではなく、不死身の神様同士が戦うのだから未来永劫、世界の終焉までただ戦いあるのみか・・・?。

次回は、いいいよ古代仏教遺跡のボロブドール探検(観光)紀行デ〜ス!


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