バリ島の歴史 |
序文 |
バリ島の歴史を調べていくと古代王朝の栄華衰退が常に西に位置する巨大なジャワ、スマトラ島から押し寄せる圧倒的な武力を誇る権力者とその後ろ盾となる宗教に翻弄され続けて来た事実を思い知らされます。とはいえ西のはずれに位置した小島であったため比較的平穏に権力が移譲され、その度に新旧勢力が融合した独自の王朝文化を繁栄させることができ、これこそが古代アジアの香りが色濃く漂う文化と生活様式を現在に残することが出来た最大の幸運だったと思う。バリ・ヒンドゥ教とは、ヒンドゥ教、仏教、イスラム教と土着信仰のそれぞれが歴史の中で交錯し影響しあって今日の姿になったもので、これは島内に散在する遺跡や古寺院に残る痕跡からも明らかになっています。 |
神々がやってくる前の時代 |
隣の ジャワ島で発見されたジャワ原人の化石は約80万年前と推測されるため、バリ島にも古くから人類が住んでいた可能性が高いと考えられているが一般的には紀元前に大陸のモンゴロイド民族がスマトラ島、ジャワ島、バリ島へと移住してきたとされる。 紀元前1000年頃に、東南アジア一円に広がったドンソン文化が金属器とともに稲作技術をバリ島にもたらしたとされている。 |
ヒンドゥ教・仏教・イスラム教の伝来 |
3〜4世紀にインドから東南アジア、インドネシア一帯にヒンズー文化が広がり始め、 5世紀後半には仏教も伝わってきたと考えられています。6世紀に入るとスマトラ島に興った王朝が西インドネシアの海洋貿易を独占し、インド仏教を基盤とする都市国家を築きます。8〜9世紀にはジャワ島に興った王国がインドやセイロンから本格的な稲作をバリ島に持ちこみます。15世紀に入ると、香辛料を求めて東進するイスラム商人たちがマレー半島やスマトラ、ジャワ島に港町を建設し、それらの港町の中から海洋国家が誕生して近隣のヒンドゥ社会を侵食し始めます。 |
マジャパイト王朝の支配 |
1284年頃に東ジャワのシンゴサリ朝がバリ島を支配下に治め、その8年後に誕生したマジャパイト王朝がその後100年にわたってジャワ島を支配し続けました。1525年頃にジャワ島のマジャパイト王朝が崩壊し、バリ島に逃れてきた一部の王族や貴族たちが亡命政権を樹立して爛熟した王朝文化の黄金期を迎えます。その後、王朝はいくつもの王国に分裂し互いに勢力抗争を繰り返していきます。今も残る巨大寺院の多くはこのマジャパイト王朝の時代に完成されたと伝えられています。 |
オランダ植民地時代 |
ヨーロッパで最初にバリ島にやってきたのはポルトガル人で、香辛料を求めて新大陸を発見した15世紀の大航海時代のことです。次いで1597年オランダの艦隊がバリ島に上陸。オランダの目的は巨大な島々を植民地化し、香辛料貿易を独占することにありました。1849年オランダはバリ島の北西部から侵攻し、1908年にバリ島の支配者スマラプラ王朝を滅ぼします。オランダ政府は島を統治するにあたり当時のバリ社会を慎重に研究し旧王族に実質的統治を任せる間接統治を選びます。この政策が結果的に島社会の混乱を防ぎ、貴重な伝統文化の保護継承に繋がりました。この時代からバリ島は「ポリネシア文化とアジア文化が合流する地上の楽園」と囁かれだし、多くの欧米人が訪れるようになります。1930年頃にはヨーロッパ人の技法や感性に影響を受けてバリ芸術は大きな発展を遂げています。その少し前までバリ島は狂気の渦巻く社会として恐れられ、主な特産品が奴隷の輸出であったことを知る人は少ない。 |
太平洋戦争と独立 |
20世紀に入るとアジア各地で反植民地運動が高まり、オランダの支配体制は次第に疲弊していきます。1941年太平洋戦争が勃発し、翌年にはバリ島を始めジャワ、スマトラ島は日本軍の占領統治下になります。1945年戦争終結と同時にスカルノ率いるインドネシア共和国政府が独立宣言を行ない、1950年にはバリ島も共和国に参加します。この間の政治的な混乱の中で血なまぐさい抗争が繰り広げられ、島中を殺戮の嵐が吹き荒れて数十万人に及ぶ人々が虐殺されました。1965年のクーデターにより政権はスカルノからスハルトへと移行。その後、深刻な経済情勢の中、スハルト-ハビビ-メガワティとめまぐるしく移るものの同族支配の権力構造に大きな変化は見られず、アジア地域内でも資本と経済の急速な変化に取り残されているのが現状です。昨年10月に起きたイスラム過激派組織によるバリ島テロ事件は多数の犠牲者をだすと同時に、それまで国内の政治的なテロや暴動とは無縁と信じていた島民の心に深い傷跡を残し、島の経済に計り知れない打撃を与えている。 |